人生のダウンサイドリスクを限定させる

セネカは、ストア派の哲人で、その生涯は波乱に満ちていて、さいごは国王の不信を買い、かなり苦しんで死んだ、と云われている。かれは、「怒りについて」とか「賢者の恒心について」とか、とりわけ有名な「人生の短さについて」といったエッセーを書いて、その内容は全く古びることなく今の世界のリアリティを射抜いている。

それは、かれが凝視した、かれが追求したストイックなるものが、人間の本質の深いところを照射していたからで、そうであるからこそ時代によって古びない。人間の脳が変化しないかぎり、人間の脳が、さまざまな破滅に至るバイアスや怒りや負の感情の暴走から遠く離れることができないあいだは、セネカを必要とする人はいなくなることはない。

わたしの少ない蔵書のなかに、岩波文庫の『怒りについて』と『生の短さについて』があり、時折閲している。ちなみに、ケミしている。と読む。

じゃあなんでそんなあんまり使わない漢字を使うのか、ただ「読んでいる」と書けばいいものを、とお叱りを受けるかもしれない。しかし、①別に難しくない、②古典には閲するという表現を使いたくなったのだ。ふと。

そういう気まぐれさが許容されない世界にはわたしは用はない。

怒りについて」、ラテン語の原題はDE IRAとある。Deは、「〜について」、Iraは「怒り」ということになろう。イライラの語源はIraであるというのは嘘で、たんなる偶然の一致だろう。

セネカは、(最近パソコンで文字書いてないからこの時点で指が疲れている)、怒りについてのなかで、執拗に、徹底的に、怒りの有害さ、怒りの制御不可能さを語っている。怒りの発端、その最初の小さな火に気づいたときに、素早く消火する、素早く消し去ることに集中するべきだ。他人からひどい仕打ちをしても、決して仕返ししてはいけない、怒りを溜め込んでいけない。唯一の対処法はそれを忘れることだ。と書いている。

具体的には、マルクス・カトーとという優れた人物は、風呂場で見も知らぬ野郎に何の理由もなく殴られた。その後、その野郎は殴った相手があのカトーだということに気づいて謝罪した。しかしカトーはそのことについて「忘れた」と言い放った。それが賢い人間の歩む道なのだった。

じゃあ、害をあたえた側の人間は罰せられることがないのか、そうだ。しかもかれは著名人と知り合うことさえできた。罰せられるべき人が罰せられないというのは変な話に聞こえるかもしれないが、社会規範や、報復願望といった表層的な道徳観念は、セネカが見据えた人間の本質、人間が目指す境地のまえに道を譲ったほうがいい。

人生、何が起ころうと、心を汚してはいけない。怒りは制御不可能なのでひたすら距離を置くべきだし、怒りに気づいたらそれを増幅させるのではなく、報復するのでもなく、ただ忘れることだ。そうしないかぎり、心が汚れたままなのだから。心が汚れたままだと人生が台無しになる。結局被害者はさらに救いようのない被害者になるというわけだ。

人間が生きるのはそんなに生半可なことなのかね、という意見もあるだろう。怒らないでいるなら人間をやっている甲斐がない、と太宰治は言うだろう。しかしセネカにとっては、文学的味わいや、世間的常識なんかどうでもよくて、怒りから遠く離れることこそが最重要の難事業だということになるだろう。

怒りはどこまでも増幅する。そいつを野放図に放置していたら心理的なダウンサイドは無限だといっていいでろう。そしてそれは習慣化し、ヘミングウェイが書いたように、星や太陽を見るたびに敵意をいだくようなしんどい人生があるだけだろう。

セネカはそのダウンサイドを限定させろとといた。ダウンサイドを限定し、アップサイドの限定は取り払う。これがストイックな生き方の本質だということを、「怒りについて」で書いていたのではなかったか。