see to

ラジオ英会話より

 

あなたのお嬢さんはお父さんをとても大きく描きました

Your daughter made her dad really big in her drawing.

下線は、日本語にするとちょっとまわりくどいが(貴殿の娘さんは彼女のお父さんを)、英語ではそう表現するしかない。

じゃあ、Your daughter made you really big in her drawing.

とは言える?

というか、当事者(「お父さん」)と面と向かって話している状況にあっても、前者のような表現が普通のようだ。

 

He made his dad big.

かれは父親を大きく描きました。(子供が書いた絵について)

 

Make mine the fishberger.

私のはフィッシュバーガーにして

(私はフィッシュバーガーで)

 

わたしが晩ごはんの準備をしているあいだ、リラックスしてくつろいでね

Relax and make yourselves at home while I see to the dinner.

 

see to という超初歩的に思える句動詞は知らなかった。

see to は「〜の面倒を見る」「〜の準備をする」「〜に必要な処置を施す」

See to it that you lock all the doors

Can you see to it that you call me tomorrow morning?

 

 

全然関係ないのだが、世界には事実があるだけで、それをどう解釈するかによってどうとでも見えるというのは言い古された話だ。しかしワイはこれをとことん理解できているだろうか。たとえば、やっと着いた、と言いたくなるところを、着いた、というだけにとどめてみる。若い医者だと思うがすかさず「若い」を取り去り、医者、としてだけ認識する。というのも「若い」という形容詞は必要かといわれればそんなんでもないでしょう。この辺は田中小実昌の短編だったかに書いていたのを思い出しながら書いているんだけど。

コップに水が半分も入っていると思うか、半分しかないと思うかによって楽観的か悲観的か分かれる、という話はよく持ち出される。ここで重要な論点は、むしろ、どちらの感想も排するということなのではないか。ただ、コップに水が半分入っている、という事実だけが確実な認識なのだから。

人間の苦しみの多くは、無駄な思考の産物だ。さまざまな苦悩や後悔、不満、恥ずかしさ、といった感情、あるいは他人にどう思われるかを気にするような怯え、そういったものはすべてある事実に対する単なる個人の感じ方にすぎず、まったく当てにならない、まったく普遍性のない、無駄な思考だと言える。無駄というよりむしろ害悪ですらある、まであるということばを使ってみようか。害悪まである。

なにが言いたいかというと、形容詞や副詞を使いすぎると世界をあるがままに見ることができないのではないでしょうか。See the world as it is. See the things as they are.

 

実に久しぶりに中島公園あたりの豊平川沿いを走って、ホテルの温泉に入った。