存在の椅子があるのか

過日、Morihico. でコーヒーを飲んだ。札幌のコーヒーシーンを牽引する(牽引という言葉はヒップホップシーン用語のような感じがするが)、と自ら言うだけあり、さすがにうまい。と本当はそれだけで済ませるし、それ以外付け加えることはなにもないのだが、一応1000字書きたいというのがあるので続ける。

11月なのになぜか天井から冷房が吹いてきているので、外套を脱ぐことはできない。そして床、壁はコンクリートが基調であり、天板は外され配管がむき出しにされた状態になっている。そしてソファは革張りでずしりと沈み込むのは良い感じだったが、テーブルが低すぎた。

奥に数個あるソファ的な椅子以外は、学校の椅子を想起させる、くつろぐという目的とはかけ離れた、ひとむかし前に量産された、椅子というよりは記号のような物体が並んでいた。そして、本棚には『ぼくはお金を使わずに生きることにした』という、晶文社が出してそうなタイトルだが、紀伊國屋書店刊の書籍を始めとする、若干変化球多め(「ビジネス書」は一冊もなかったのはよかった)の本が入っている本棚は高くそびえ、はしごまであった。蔦屋書店のような状態をイメージしてもらってよい。

このように、喫茶店に本が、それも週刊誌や漫画ではなく、それなりの内容がある本が満たされているとき、利用者はどんなことを思うのだろう。そして経営者的には、まちがっても一冊まるまる読んで一日粘ってくれるなと思わないでいるのは不可能だろうが、それは矛盾した感情なのではあるまいか。たとえばさっきの本であったら、モービー・ディックのチャプターごとをイラストで表現した、柴田元幸訳の本、であってもいいのだが、そうした本はコーヒー一杯の時間で読めるはずはない。

だからといってコーヒー一杯分で一般的に許容される滞在時間=1時間でたまたまひらいた1ページのあるセンテンス、ある一行で、それこそ寺山修司がいう地球全体の重さと釣り合う経験をするかもしれない。どんなに短いあいだであっても、読みきれないことがわかっていても、ページを開いてみる、一行でも読んでみる、それこそが、そのような、読書のランダム性に賭けるという行動の積み重ねは、いつ素晴らしい一行にであえるか、それがどんな本、どんな著者から遭遇できるのかは、本を読んでいるという行為の中でしか、可能性としては存在しない。そしてその「賭け」のコストはほぼゼロであり、当たればでかいが、何も得ることがなくても大損することはない。アップサイドは大きく、ダウンサイドは少ない。

ナシームタレブ(NNT)『反脆弱性』のなかでも、とりわけ感動的な「反脆い(バーベル型の)教育――半自伝的教育論」という賞でこんな考察が披露されている。

大事なのは、ひとつの本に飽きても、読むこと自体はやめないということだ。そうすれば、読んだページ数はどの方法よりも速く増えつづける。そして、試行錯誤に基づく理性的ながらも自由気ままな研究と同じように、労せず〝 金〟が見つかるはずだ。これはちょうどオプションと似ている。試行錯誤し、決して立ち止まらず、必要なときは枝分かれする。だが、全体としては自由や 日和見主義の感覚は失わない。試行錯誤は自由そのものなのだ。

(ナシーム・ニコラス・タレブ『反脆弱性』(上)、ダイヤモンド社)

晩秋の札幌は晴れていた。これから来る冬の予感はありながら、Tシャツ姿の人も見かけたほどの小春日和であり、落ち葉舞い散る豊平川河川沿いを眺めながら思う、そのような「労せず〝 金〟が見つかる」かもしれない状況が、おしゃれカフェ読書なのかもしれなかったと。

なので、色々本が飾りのように置かれていて文化的だなあと思うのと同時に、何でもいいからその中から読んで見るのは、別に損をするわけではないし、ひょっとすると大きな発見があるかもしれないわけで、本である限り、たんなる飾りなのではなかった。

ところで、これもまた別の考察を要求するのだが、カフェという空間の本質というのは、椅子を専有する、ある場所を専有するという行為なのかもしれない。いくら平和な世の中であっても、冷徹とした、宙吊りの緊張感というものはどんな社会にもあるだろう。

またこれも別の印象なんだけど、晩秋に木の葉がほとんどん落ちて、枝だけが寒々と風に揺れている姿を見ていると、木が生えているというより、むしろ空気に亀裂が入っている、という見方もできる、というふうに思う。『スケール』という本でフラクタル性の事例をいろいろ見ていたので、その影響があるのかもしれない。

雪が降っているのではなくて、雪の中に地面がゆっくり昇っているのかもしれない、と書いたのは池澤夏樹だった。普通の見方の角度を変えてみる、それもほとんど反射的に、別の見方、別の感じ方はないか探るという欲求が満たされることは稀だが、それでもありきたりに見える世界はそれほどありきたりではないのかもしれないっすよね。