体温を保ち続けろ

パワーズ『幸福の遺伝子』

 

どんなことが起こっても、過度に落ち込むことはなく、幸福がいつも持続しているアルジェリア人の学生がいて、彼女に関わる人だれもが、幸せのおこぼれに与る、というか、幸せバイブを感じることができる、言い換えるのなら、一緒にいる間自分も幸せな気分に浸ることができるのだった。

しかし、彼女の幸せハッピーな状態は、なんというか、人というものは感情の起伏があるわけで、悲しんだり喜んだりして死んでいくわけなんだけど、タッサというその学生は「常に」幸せを感じているようなのだった。それを非常勤の先生は「ハイパーサイミア」(心理的な外れ値的な存在)なのではないか、という感想を、彼女をめぐるある事件が起こった時に警察に何の気なしにつぶやいた。

その言葉はニュースに掲載され、SNSで増幅され、タッサは、ありえないくらい幸せを感じ続けている少女として注目されるようになり、それは遺伝子的な大当たりを引いたからなのではという科学者が登場し、全米を沸かせる。ドキュメンタリーやトーク番組が放送され、彼女の下宿には多くのディブレッションを抱えた人たちがひと目みたい、一言だけでも言葉を交わしたいという思いを持って殺到するのだった。

人がしあわせを感じるのも、ふしあわせを感じるのも、脳の働き次第、DNAのある微妙な組み合わせの違いで決まってしまうという見方は説得力がある。鬱になったりするのも、環境や境遇や記憶がそうさせるのではなくて、それぞれがたまたまそれぞれの存在であったというだけで押し付けられるそれぞれことなる脳の振る舞いに翻弄させているというのが客観的な構図だと言い切ってしまえれば、個人でできることはあまりない。それが性格という言葉の本源的な意味あいなのかもしれないし、科学が発展すれば、遺伝子操作一つで鬱がなおるのみならず、常に幸せに世界を感じられる、タッサ的に言えば「一分だけでもこの世界に存在できているだけで過分なる幸福」だと本当に心から感じ続けられるようになるだろう。

もしそれが実現すれば(きっと実現されることだろう)、労せずして「幸せな人になることができる。アルジェリアであろうと、どこかの紛争や擾乱が常態化した国であろうと、鬱屈した島国であろうと、この世界をどう感じるかは100%、そいつがどう感じるかにかかっているから。つまり、古典的な、伝統的な感情の振る舞いというのは、悲しいことが起これば悲しみ、嬉しいことが起これば嬉しくなるというものだが、どんなことが起こっても嬉しさが持続する、という状態にすることができれば人類のゴールなのではないかという仮定。遺伝子操作することで人は物語を捨てるし、幸せにる世界が来ることは「幸せ」なんでしょうか。

パワーズの小説は密度が濃くて、とてもかんたんにさらっと感想はかけない。

『白鯨』から「四季を通じて汝の体温を保ち続けよ」という引用があった。それを僕は平日の夕方の温泉のぬるい浴槽に浸かりながら、その言葉を味わっていたのだった。体温を保ち続けよ、という言葉の真意は知らないが(『白鯨』は読み切ってないので)、北海道でこれから来る冬の寒さを予感しながら、温泉に入る意義がぐんぐんに増していった。