1949年に誕生した中国では、その当初から漢字をローマ字に完全移行させるという遠大な計画を持っていた。
毛沢東は書いている。
「この試みを達成するため、文字は一定条件のもとで改革しなければならない。言葉は民衆に近づかなければならない」
(『新民主主義論』1940)
それから十年後の1951年には、
「文字は改革して、世界の文字と共通の表音化の方向にむかわなければならない」
「漢字の表音化には多くの準備が必要である。表音化する前に、漢字を簡略化して当面の仕様に役立て、同時に積極的に各種の準備作業を進めなければならない」
といっている。

そういうわけで長期間、膨大な試行錯誤が積み重ねられた。

印象に残ったのは、たとえば、始めて漢字をローマ字に変える方法を本にして提案したのはアモイあたりの出身の卢戆章というひとだった。
かれは19歳のときに科挙に落ちて、シンガポールで働きながら英語を勉強したという。そして『一目瞭然初階』という本をだした。
それから、

はじめてローマ字を字母として用いたのは朱文熊の『江蘇新字母』(1906年)である。彼は江蘇省崑山の出身で24歳のとき(1906)日本に留学し、東京高等師範学校の理科に学んだ。当時の日本はに日露戦争で世界の一等国にのしあがり、国際的感覚をもったローマ字論が新たな脚光を浴びていた。彼はその影響を受けて、郷里の言葉である蘇州語のローマ字表記を考案し、日本で自費出版した。英漢辞典の編訳を手伝ったアルバイト代をこれに充てたそうである。

とくに画期的だと思ったのは、かれは声調符号をローマ字表記の中に組み込んだということ。今はあのマークが韻母のうえにのっかってる。
たとえば、云yun 引yuns 运yuns 亦yuのように。これはのちの「国語ローマ字」に似ている。
その《国语罗马字》は赵元任提倡的一种罗马字化的方法。这也有几个特点。
巴ba 拔bar 把baa 爸bah
我觉得这个办法好用,应为把韵母上边加上声调符号打字起来太麻烦。为什么这个办法没有推广下去了呢。
我觉得这个有一定的价值。